書評者と著者と読者の本屋「松原商會」@PASSAGE by ALL REVIEWS のBlog

社会経済学者・松原隆一郎(放送大学教授、東京大学名誉教授)と丁稚が営む、書評と書評された本と読者をつなぐ一棚書店

# 11 東京大学柔道部「半世紀ぶりの七大戦優勝」を果たせなかった部長と、「七大戦2連覇」を果たした「名もなき選手」の時空を超えた出会い

(「小日向さんのこと」その1その2その3その4もお楽しみください!)

東大柔道部長として最後に挑む七大戦(国立七大学が戦う柔道戦)で「半世紀ぶりの東大優勝」を十中八九手にしたと確信しながら、ありえない理由で達成できなかった松原隆一郎會長。(くわしくは、前回をお読みください!)

松原商會の大切な ”謎の上得意さま" である小日向さんのお父さまが、今から56年前、東大が優勝した時の東大柔道部員だったと知った會長は、お父さまが卒業の際に部誌に書いたであろう文章をコピーしてプレゼントしたい、と小日向さんに申し出ました。

その頃、コロナ禍により東大の柔道場は閉鎖されていたため、會長は、東大柔道部の寺田悠甫監督にメールを送り、小日向さんのお父さま” 1968年卒、鈴木勝男先輩 ” に関する記録を探してほしい、とお願いをしました。

それから数日後、寺田監督から詳細な ”調査結果” が、會長に報告されました。

『赤門柔道』鈴木勝男先輩(1968年卒)の記述について

お世話になっております。東大柔道部の寺田です。

先日松原先生より調査依頼を受けておりました、標記の件につきまして、『赤門柔道』バックナンバーにアクセスし、 鈴木先輩に関する記述を発見することができました。お待たせして申し訳ありません。 

赤門柔道の第1号(昭和28年)から第56号(平成22年)までは、CD-ROMにPDF化されて保存されておりました。

私の方で1964年〜1969年あたりの記事をざっと確認したところ、鈴木勝男先輩ご自身で書かれた文章は見つかりませんでしたが、第15号(1968年、昭和43年)の卒業生の横顔に記述がありました。 (画像を添付しています) 

鈴木勝男先輩は、7人制の公式戦のレギュラーであり、七大戦や学生柔道、各定期戦など、あらゆる試合で勝ち星を上げられるなど、 下級生の時から取り役として活躍されていた方で、試合記録と講評には記述が残っています。(注:柔道には「取り役」と「分け役」があり、「取り役」は必ず勝つ責任を担う選手、「分け役」は(もちろん勝つに越したことないけど)引き分けに持って行って相手の勝利を防ぐ責任を担う選手のことを言います。)

七大戦は2大会出場で、4勝4分、1不戦を記録されていました。(注:後日、寺田監督により訂正されます。)

 記述の例(丁稚注: 一部、中略)

第14号(S42年、4年生)  七大戦優勝。その他、試合多数。p18「鈴木、高角の頭脳的で機敏な寝技」

第15号(S43年、卒業) p50 卒業生の横顔

小日向さんのお父さま(鈴木勝男先輩)を通して、「半世紀前の東大優勝」に触れた寺田監督の興奮がメール全体から伝わってきます。

「すごい!小日向さんのお父さんは優勝メンバーだったんだ!」

同じく興奮した會長は、すぐさま、小日向さんに「調査結果」を報告しました。

會長 → 小日向さん:「お父さまは七大戦で優勝メンバーだったのですね!! 素晴らしいです。それから半世紀以上、東大は優勝できていません。 

4勝4分けというのは、1人に勝って次の相手と引き分けるということですから、監督からしてももっとも信頼できる選手ということです。

寺田監督もこの調査ができて喜んでおりました。 次に、CDを私に送るように依頼しています。 届きましたら一枚、お送りしますね。」

寺田監督の調査結果に添付されていた、『赤門柔道』第15号(1968年、昭和43年)の「卒業生の横顔」がこちらです。卒業生の部員同士が互いの人となりを綴っています。柔道部仲間から見た鈴木勝男先輩はどんな人だったのでしょうか。

黄色で囲んだ部分が、小日向さんのお父さま”鈴木勝男先輩”について

鈴木 勝男 (法、日本毛織

「ガニー・スズキ」と親しまれ、天王寺高校にいた頃から寝技をやっていて、大学に入ってからは、一層うまい寝技を身につけた。関接技(ママ)、絞め、変な押え等を器用にこなし、立っても蟹挟み、巴、掬い技と寝技への連絡技を駆使していた。

そのため、早くから、七大学戦を始め各種の定期戦で活躍し、貴重な勝星をあげるとともに、原田などとともに「寝技の東大」を世に知らしめたのである。

入学した頃は、故郷の誰かと文通をしたり、ダンスに狂うかと思われたこともあったが、合ハイのとき、一大発起したのか、坊主頭になった。それ以来あまり浮いた話は聞かない。

勉強も非常に要領よくやり、柔道部法学部の中で内容はともかく、単位の改得数だけは一番多かった。

酒は好きなのかどうか分らなかったが、飲むときはガブ飲みすることが多かった。また、コンパ等では、「ヘルメス」や「逃げた女房」など浪花節でわれわれを楽しませてくれたものである。

(三段)

翌日、寺田監督から會長に、調査結果の続きが報告されました。

昨日のメールで鈴木勝男先輩の七大戦戦績を4勝4分けと書いておりましたが、1大会分脱落があり、正しくは、5勝7分けでした。その他の試合も記述多数です。

鈴木先輩は3、4年生の時に東大唯一の七大戦2連覇を成し遂げた時のレギュラーメンバーで、まさに東大柔道部全盛期の真っ只中で取り役として活躍された方でした。

■七大戦

第14回(1965年、鈴木先輩2年生)

1回戦 VS東北大 2勝1分、準決勝 VS名大 1分

第15回(1966年、3年生)

1回戦 VS東北大 1勝1分、準決勝 VS名大 1勝1分、決勝 VS北大 不戦 東大優勝。

第16回(1967年、4年生)

1回戦 VS北大 1勝1分、準決勝 VS京大 1分、決勝 VS名大 1分 東大2連覇

通算、3大会8試合出場、5勝7分(1不戦)。

■その他記述の例

第12号 12月5日防大戦(鈴木先輩1年生)

「試合度胸満点の鈴木は双手刈りから寝技に入り簡単に絞め落す。敵の衝撃大なり。」

第13号 七大戦(鈴木先輩2年生)

「ここで我軍の期待をになって鈴木が出る。まず八鍬を送足払で鮮かに破る。二人目松川が頑張るを、機を見て放った得意の内股で投る。三人目東北大の抜き役日下と対戦するが、根性で頑張りかろうじて引分に持ち込む。」

第15号 「七帝二連覇達成」(鈴木先輩4年生)

「緻密さと豪快さがミックスし、不敵な笑いを浮かべる鈴木三段」

寺田監督の詳細かつ丁寧な調査報告の端々に鈴木先輩への敬意があふれています。

寺田監督はベンチプレス170キロを上げる強豪で、現役で通算7勝(2009~11年、3大会6試合)でした。コロナ時2020年のチームは卒業し、今また半世紀ぶりの優勝へ向け、日々、新チームの鍛錬に奮闘しています。それだけに鈴木先輩への畏敬の念が募るのでしょう。

この続報を、會長はすぐさま小日向さんに報告。

一連の「鈴木勝男先輩に関する調査結果」を読んだ小日向さんから、會長にDMが届きました。

松原先生、寺田監督様、この度は誠にありがとうございます。

父 勝男は柔道部には強い感情を持っているのは家族も感じてましたが自己表現的なものはあまりせず、七帝戦で同窓の皆様と団体優勝させてもらったことは生前本人から聞けないままで、他界した後のおくる会で柔道部同窓のかたから教えていただきました。

葬儀の際は柔道部同窓のかたが数人おこしいただき皆さんで涙を流し続けて供養してくださるお姿や、同じ時期に在籍された数十人のかたがおくる会を東京で開いてくださった様子で、スケールの大きい絆で結ばれる、幸せな環境で過ごさせていただいたことを感じました。

1964年東京五輪から安田講堂事件の年まで在籍させていただいた父ですが、世間さまと関係なく柔道ばかりしていたと言ってましたので、お送りいただいた『赤門柔道』のCDを見て、たしかめてみたいと思ってます^_^

お送りいただいた成績で、60年代後半の父を含めた皆様の様子をうかがわせていただけたこともさることながら、松原先生と寺田監督様からもやはり柔道部のかたのホットなお気持ちが伝わり、たいへんな有り難みを家族で感じております。重ねて御礼申し上げます。

丁稚も、小日向さんとまったく同じく、東大柔道部の「スケールの大きい絆」「ホットな気持ち」に深く感動。

會長と寺田監督、小日向さんを結びつけたのは、ただひたすら、56年前の東大優勝を勝ち取った「鈴木勝男先輩」とそのご家族への、會長と寺田監督の敬愛の念。

そして、會長と寺田監督の思いによって、小日向さんは、お父さまが亡くなられてから15年がたった今、大学時代のお父さまの姿を初めて知ったのです。

寺田監督からもメールが届きました。

松原先生

こんばんは。柔道部の寺田でございます。

昨晩はご連絡ありがとうございました。また鈴木様へのCD発送、鈴木様からのメッセージ転送もありがとうございました。

大変喜んでいただけた様子で、私も嬉しく思います。

先の松原先生のメッセージにもございましたが、必ずしも著名な方でなくても、これほど優れた戦績を残された方がいらっしゃることを私も知り、七帝戦優勝時の選手層の厚さを思い知った次第です。

また当時は部員数も、少なくとも数十名はいる様子で、部内競争も激しく、その中から選ばれた15名となると攻めも守りもかなりの強者ぞろいだったものと思われます。

(例えば、当時京大戦を25人戦で行っており、それでも全部員には満たない模様です)

鈴木先輩は、部員が30人はいた時代で、2年生からレギュラーを務めているこ
と、七帝戦で3大会7試合を戦い、(8試合出場、うち不戦が1試合)5勝7分と、勝ち星が抜群に多いとは言えないかも知れませんが、無敗という点も見逃せません。
また当時は平均的に分役が堅く、1人抜きでも大変だったと聞いたことがあります(これは正確かどうかはわかりませんが)。
当然ながらチームとしても7勝1敗と大きく勝ち越し、取れる星を確実に取りながら、
堅実な試合で東大2連覇に貢献された姿が想像されます。

今後も広く多くの方に東大柔道部のことを知っていただき、応援していただけるように、そして東大柔道部の伝統を引き継いでいけるよう頑張って参りたいと思います。

寺田

會長から小日向さんへのプレゼントは、寺田監督にとっても、東大柔道部にとっても、すばらしいプレゼントになったんだなぁ。

會長、いいことしたなぁ……。

丁稚が感動の涙でチーンと鼻をかんでいると、小日向さんからピョンとDMが。(以下、抜粋)

父ですが大学卒業後、すぐに、柔道部の皆さんを呼び東大構内で結婚式を挙げ、1970年代はじめの神戸市に転居しました。

そのときのことをを母に聞いてみました。

結婚式の前、ご参加いただいた30名ほどの柔道部の方と「七徳堂」という東大武道場に準備で寄らせていただき、式自体は食事の都合もあり構内の山上会議所という今は無い和風建築に移動し、行ったそうです。

1969年春、柔道部のかたは参加しなかった紛争が東大で最中であっても、施設はふつうに貸してもらえて、七徳堂部室は下宿に入れないかたやOBのかたまで何人も住まいにしておられたそうで、床に隙間なく、座布団の代わりに柔道着を敷いてもらったが、ありがたかったけど座れなかったと笑っておりました^_^

全国1700あまりある市町村の中から転居先が神戸市だった幸運な地縁で、松原先生の『頼介伝』を読み、こうして「松原商會」さんとのご縁につながりました。

七大戦に優勝した1966(昭和41)年、東大構内の武道場「七徳堂」に揃った東大柔道部員の皆さん。矢印が「鈴木勝男先輩」

やがて、小日向さんから會長に、約束の「お返し」が届きました。

「ミーコ」は神戸でミルクコーヒー、「レイコー」は冷コーヒー(アイスコーヒー)のことだそうです。

小日向さんが送ってくださった、「喫茶ベニス」の店内の写真。

 

東出町は、會長の祖父・頼介さんがフィリピンから流れ着いた町。そのことを、會長は、頼介さんの人生を調べて書いた『頼介伝』の取材時に初めて知りました。喫茶ベニスを知ったのもその取材のときです。

今回、小日向さんから初めて伺ったのですが、小日向さんは神戸で育ち、今も神戸に通勤なさっていることから、神戸のことが書いてある『頼介伝』を読んでおられ、それがきっかけで、松原商會のことを知ってくださったそうです。

東出町の「喫茶ベニス」は、なんと、『頼介伝』を読む前から小日向さんの行きつけだったとのこと。

ありし日の「喫茶ベニス」での、小日向さんのモーニング。トーストとミーコ

小日向さんは、関西の地から、松原商會にてオンライン購入してくださった會長の著書『経済思想入門』と 付録の「ちっちゃい會長」を連れて、大正時代に頼介さんが生きた場所をたどってくださいました

そして、會長は、寺田・東大柔道部監督のお力を借りて、小日向さんを、今は亡きお父さまの東大柔道部時代の日々にお連れすることができました。

小日向さんが(ちっちゃい)會長と一緒に追いかけてくださった頼介さんも、會長と寺田監督が追いかけた鈴木勝男先輩も、名もなき人。

そして、會長も丁稚も、小日向さんがおいくつくらいで、どんなお顔で、どんなお仕事をなさっている方なのか、今も知りません。

でも、小日向さんとのご縁を、これからもずっと、會長と丁稚は、だいじにだいじにし続けます。

神保町の小さな一棚本屋から、距離も時間も超えて、いろんな人と気持ちがつながって、そこで生まれた小さな灯が、會長と丁稚、小日向さん、みんなの胸の中で、ずっと消えないあたたかい光になりました。

 

松原商會を始めてよかったなぁ、と、心から感じさせてくださった小日向さんのことを書きました。

(「小日向さんのこと」おわり)