書評者と著者と読者の本屋「松原商會」@PASSAGE by ALL REVIEWS のBlog

社会経済学者・松原隆一郎(放送大学教授、東京大学名誉教授)と丁稚が営む、書評と書評された本と読者をつなぐ一棚書店

# 10 「謎の上得意さま・小日向さん」のお父さんの正体に、會長平常心を失う

小日向さん(小日向さんについては、「小日向さんのこと その1」からお読みください!)が、関西の地からオンラインでお買い上げくださった、松原隆一郎會長の著書『経済思想入門』(ちくま学芸文庫)が届いたことをDMでお知らせくださったとき、2枚の写真を添付してくださいました。

(小日向さんDM本文〈抜粋〉)

先生のメッセージ入りご本、日曜日にありがたく受け取らせていただきました。
幾たびお店にもうかがいましたが、地方民へのオンラインでの身近さかんじております。…(中略)…格闘技のご特集にも、1960年代後半の東大柔道部でお世話になっておりました亡父の洗脳により、負けない七帝戦の物語りに当時のファンタジーを感じる自分にも興味を持たせてもらってます

1967(昭和42)年に七大戦に優勝した東大柔道部員の皆さんが写っています。この中に、「小日向さん」のお父さま、鈴木勝男さんがいらっしゃいます。(小日向さんがTwitterのユーザー名にしておられる「小日向よしお」は、母方のおじいさまのお名前だそうです。)

この『国立七大学柔道戦史 ―武道としての柔道を求めて』(1988年刊)は、国立七大学の柔道部が戦う「七大戦(七帝戦)」の昭和27~61年の歴史がまとめられたもの。なんと、京都大学柔道部の丹羽権平さんが私費を投じて編集なさった本です。

1967年とはどんな時代だったのか。写真の上に書かれた文章を見てみましょう。

「昭和四十二年 ― この年」

 第二次佐藤内閣は沖縄返還要求の基本方針を決定したが、アメリカのベトナム戦争は継続し、ベトナム特需を含めて、経済成長は続いている。都市へ工業へと人々は集中して農業人口は二十%になり、過疎過密は一層深刻になりつゝある。その東京では四月美濃部氏都知事に当選。国際収支の黒字化が進み、資本の自由化が七月より実施。自動車保有台数一千万台突破し、天下泰平の「昭和元禄」。十月に吉田茂元首相死去。戦後初の国葬が行われた。

 街角ではミニスカートが定着し、生活単位の核家族化が云々され、テレビ普及率は八十%突破。団欒はテレビを囲んでという家庭がふえ、映画は主役の座から降りつつある。歌は「ブルーシャトー(レコード大賞)」「世界は二人のために」「夜霧よ今夜もありがとう」等流行。

 全日本では並み居る重量級を制した中量の岡野功(中央大OB)が佐藤宣践(東教大OB)を技ありで降して覇者となる。学生は団体で天理大が拓大を降して久し振りに制覇。個人も実力充分の天理大笹原富美雄四段が取り天理大にとっては両手に華で本年も暮れた。(筆責 丹羽)

 そして、小日向さんのお父さま、鈴木勝男さんはこの方。

「寝技のし過ぎで耳が平べったくなってる写真」(小日向さん)

東大は1966(昭和41)年と、この写真の1967(昭和42)年に連続優勝。そして1973(昭和48)を最後に、なんと半世紀間優勝していません。

しかし、じつは、「今年のこのメンバーなら優勝は確実!」という年がありました。

それは、會長が東大を退職した翌年の2020(令和2)年、12年間務めてきた東大柔道部長として育て上げてきた15名とともに臨む七大戦。前年に強かったメンバーが6人も留年し、半世紀ぶりの優勝に備えたのでした。

ですが、この年、七大戦は新型コロナを理由に開催中止に。

七大戦が開催されなかったのは、1952(昭和27)年に始まる大会史上初めてのことでした。

だから、今でも會長は東大柔道部の話になると、いろんな思いと感情が會長の中で噴射して、頭が少しおかしくなります。

部員たちも完全燃焼できず、主将の福島聖也さんは大企業に入ったものの退職し、プロ柔術家になってしまいました。

そういうわけで、會長は、松原商會のもっとも大事なお客さまである小日向さんのお父さまが、あの「七大戦最後の優勝」の時の東大柔道部員だったと知り、平常心ではいられませんでした。

小日向さんに、『経済思想入門』と「ちっちゃな會長」を「『頼介伝』の旅」(詳しくはこちら の記事をお楽しみください!)に連れて行ってくださったお礼をしたい、と思っていた會長は、はっと思いつきました。

會長「丁稚や、小日向さんのお父さまの東大の卒年を小日向さんに聞いてみてくれるかい?もし教えていただけたら、東大柔道部歴代の部誌の中から、お父さまが卒業にあたって書いた文章をコピーしてきて、小日向さんにプレゼントしたいと思うのだよ。」

丁稚「會長、すごく素敵なプレゼントだと思います!すぐ小日向さんにお聞きしてみますね。」

すぐさまシュバッとDMで小日向さんに會長の申し出をお伝えして卒年をおたずね。

やがてピコリンと小日向さんからお返事がきました。

ご連絡ありがとうございます!
1945年5月生まれですので、卒業は1968年3月かと思います。
当年学園紛争で卒業式は無かったと聞いております(柔道部は紛争には参加してなかったとも聞いてます)
部誌のコピー、あまり父から直接聞いたことは無く、先生のご厚情まことにありがたい気持ちでおります。

先般おはなしに出ました神戸東出町の喫茶ベニス、実は閉業後にコーヒーカップなどいくつか譲ってもらい家にのこしてます。もしよろしければ私も東出町記念品を先生にお送りしたいと思ってます、いかがでしょう。

今はなき喫茶ベニスのコーヒーカップを會長にくださるとな!(喫茶ベニスについては、こちらをご覧くださいね。)會長、欲しいって言うにきまってる!でも、そんな貴重なものを會長にあげちゃっていいのかな、と、とまどいながらも會長に小日向さんのお申し出を伝えると、

會長「欲しい!!」

丁稚「じゃ、東大柔道部部誌、しっかりコピーしてきてくださいね。」

その頃、世の中は新型コロナが猛威を振るっており、東大構内に自由に入ることはできず、會長は部誌が置いてある柔道場に近づけませんでした。

コロナが少し落ち着いた頃、會長は東大柔道部の寺田悠甫監督に、小日向さんのお父さまについて調査を依頼します。

すると、小日向さんも知らなかった、「東大法学部、柔道部員、鈴木勝男君」の活き活きとした日々が浮かび上がってきたのです。

(続く)